『「はじめに子どもありき」の理念と実践』 平野朝久 編著、東洋館出版社、2022年

 このBook Reviewで最初に取り上げたのが、平野朝久先生の『はじめに子どもありき』でした。私自身、その立場でいたつもりですが、前著を読んでわかっていたつもりの私を大きく揺さぶりました。ぜひ多くの先生に読んでいただきたい1冊です。


「教育理念」として


 タイトルに「理論と実践」とつけた教育書は非常に多くあります。本書は「理念と実践」です。ここに平野先生の一番の想い、主張が表れていて、それが第Ⅰ部に貫かれていると感じます。

 それは、部、章タイトルの表現「教育実践の根底にあるもの」「教育理念としての『はじめに子どもありき』」だけでなく、本文の随所に見られます。


「共に創る授業というのは、特定の方法論ではなく、そのような授業観であり、具体的な方法は様々である。(p.35)」

 私も、ずっと以前から同様のことを考えていました。同じ指導案で、同じような授業展開であっても授業が違うということも見ました。それは、それぞれの教師の授業観、教育理念が違うせいだろうと感じていました。

 例えば、問題解決学習の授業であっても教師が説明してしまうのです。問題の提示、自力解決、練り上げと問題解決学習の流れはとっていますが、「解決」ではなく「解説」になってしまっているのです。

 ただ、それは「子どもに理解させたい、できるようにさせたい」という教師の善意からで、決して「子どもを悪くさせたい」というわけではありません。


「真に子どもが主体的に追究し、学ぶ授業が実現できなかったのは、授業の方法や形に目が向き、その方法を実施し、形を整えることを急ぐ余り、教育の根底にあり、授業における教師の意思決定の根拠となり、授業の前提となっていることを問い直し、改めることを怠ったからではないだろうか。(p.11)」

という指摘は非常に重要で、アクティブ・ラーニングが導入されようとした際も「形式的に対話型を取り入れた授業や特定の指導の型を目指した技術の改善にとどまるものではなく、(中略)学習の在り方そのものの問い直しを目指すものである。(中教審答申)」 と明記されたにもかかわらず、アクティブ・ラーニングを指導方法としてみる研究者、教師が多くいました。

 教育書も、ほとんどが教育技術、指導技術に偏り、そしてそういう教育書が売れていきます。


 これから個別最適化の学習が期待され、自由進度学習などの取り組みもなされるようになってきています。それも、単なる指導方法ととらえ、旧来の子ども観、授業観でなされると、結局は失敗してしまうのでないかと思います。

 こうした取り組みの本来の力を発揮するのは、やはり方法ではなく、教育理念なのではないでしょうか。

 本書には、これからの授業に必要とされる授業観、子ども観を具体的に示されています。前著の『はじめに子どもありき』も、まさにそのような書籍でしたが、本書は、さらに「子どもの見方」を中心により具体的になっていました。


子どもの見取り


 「はじめに子どもありき」ですから、「子どもとは何か」を問い、「子どもをどう見取るか」が、まず第一です。大村はまさんも、「子どもを知るということ、子ども自身より深く知るということ、親をも越えて子どもを知るということ、これがまず教師として第一のことでしょう。(『教室をいきいきと』)」と述べ、柴田義松は「教育学の中心的問題は、子どもを知ることにあるといってもよいように思う。(『柴田義松教育著作集8 学習集団論』)」と言うように、今までもいろいろな方が指摘してきました。

 指導案等でも「児童の実態」として書かれることはよくあります。誰もが、子どもの実態を踏まえて授業をする必要は感じているでしょう。

 本書で示された「子どもの見取り」は、そうした今までに書かれた「児童の実態」に、今までと異なる視点を与えるものでした。

 例えば「行き過ぎた解釈をしないようにする」や「常に仮のものとする」(第Ⅰ部第2章)などは、そのように児童を見ている指導案はあったでしょうか。

 私も「子どもは日々成長する存在」で、固定的な見方をしてはいけないとは考えていましたが、本書は、そうした子ども観をさらに広げ、深めるものでした。


 子どもの事実を通して


 本書では、9人の先生が、その「はじめに子どもありき」の理念に基づいた実践を報告されています。

 教育書では、様々な理念や方法が語られますが、その良し悪しは実践に表れます。どんなに素晴らしいことを言ったとしても、実践が悪ければ説得力はありません。

 本書では、それにふさわしい実践が紹介されていました。


 こうした実践を読むときには、第Ⅰ部と往復しながら読むとよいのではないでしょうか。

 例えば、アサガオの種まきの前に草むしりをした子どもがいました(p.123)。それは、アサガオの友達として草を集めていたのですが、それは教師(大人)の考えとは、解釈とは異なるものです。ある意味、「子どもらしい」ものでしょう。その事実をどう捉えるか、どう子どもを見取るのかを、第Ⅰ部の「子どもの見取り」に立ち返ってみると、より理解できるのではないでしょうか。

 子どもを見取れない教師は、この草むしりを勝手に解釈し、単なる脱線として見過ごしてしまっていたかもしれません。


 子どもが育つ


 本書で紹介された実践は、それまで積み重ねてきた成果とも言えるでしょう。子どもがしっかりと育っています。そうでない子どもは、どうしても教師の指示を待ちます。この授業を指示待ちの子どもにしてみても、おそらく動くことはないでしょう。

 

「授業観は、教師だけでなく子どもも、それまでの授業経験に基づいて持っている。その授業観は、多くの場合、教師主導の授業であろう。そうであれば教師が共に創る授業をしたくても、その実現は難しい。そこで、教師だけでなく、子どもの授業観も共に創る授業へと転換する必要がある。」(p.36)

と述べられているとおり、「子どもの授業観」も転換することが重要です。それが子どもが育つということでもあると思います。


編集者的Point 

 「教育理念」の書籍は、ややもすると抽象論に傾きがちですが、本書は、具体的でわかりやすくまとめられています。「はじめに読者ありき」で書かれたのでしょうか。

 また、こうした「教育理念」に共感するのは、実践を積み重ねたベテランが多いでしょう。秋田喜代美さんの調査でも、若い教師ほど「授業は伝達の場」と考え、ベテランは「共同作業の場」のように考えるとの報告がありました。

 それでも本書の内容は、若い教師にこそ読んでもらいたいと感じました。そのためには、こうした読みやすさが大事だろうと思います。