『授業論 -何もしない時間 そして手紙』 板東克則著、一茎書房、2017年

 本書は、著者の板東先生からご恵贈いただいたものです。昨年、拙著をお読み頂いた先生から、メールをいただき、そして本書をお送り頂きました。

 開いて驚きの連続でした。私が考えていたことがそのまま書かれているようにも感じます。それも私は文献調査が中心でしたが、本書は、実践に基づいたものです。


 まず、帯ですが「子どもは学びの世界に遊ぶ 子どもは本来学ぶことを欲している」とあります。先生の基本となる子ども観でしょう。本文では、これを「学びの性善説」と表現されています。私は、村井実先生の「子どもは善くなろうとしてる」という「性向善説」(善に向かう)で考えますが、表現の違いはありますが、ほぼ同じです。これはまさに、私が考えていたことであり、そうありたいと願うところです。

 次に板東先生の考える「授業とは何か」です。先生は「授業とは、教師と子どもが対峙し、真理に至る過程である」と捉えられています。 齋藤喜博は、真実とか正しさとかに近づこうとするねがいを持っている教師と子どもが、文化を再創造することと授業を捉えていましたが、それに近いものです。

 「教師と子どもが対峙」するというのは、上下関係ではなく、対等な関係にあることです。そして「真理に至る過程」というは、「真理」が教師の側に最初にあって、それを子どもたちに与えるという学習ではなく、共に「真理」を目指すことが授業だと捉えられているのだと思います。

 私は、多くの先生方から「授業とは何か」を問い続けることが必要だと学びましたが、その一つがここにはありました。


 ここまでで、ほんの10ページほどです。まだまだご紹介したいところがありますが、紹介しきれません。ぜひ、本書で、この続きをお読み頂きたいと思います。


 次に、本書より学んだことをいくつかご紹介したいと思います。

 一つは、「話し合い活動」についてです。板東先生は、話し合い活動には「話す」「聞く」「関わる」の3つの要素があるが、この「関わる」が軽視されていると指摘されます。言われてみれば、確かに私が編集した国語関係でも「話す」「聞く」はいろいろと論じられてきましたが、「関わる」に触れたものはほとんどなかったように思います。

 板東先生は、関わりを生かすのに最も重要なのは、「つぶやき」だと述べられます。そして「言葉にならない表現」「うなずく」「首をかしげる」「動きにならない表現」「目の色」「表情」の、これら全てが授業を構成する重要な要素だと述べられます。

 それで思い出しましたのは、その昔に生活科の研究会での議論です。生き物とふれあう学習で、ウサギが怖くて触れない子どもをどう評価するかが議論となりました。怖くて近づけない子どもも、頭の中は、ウサギのことでいっぱいだったでしょう。いろいろな気づきもあったと思います。それをきちんと看取ってやればよい、という結論でした。

 関連した過去記事です。https://note.com/manabinomirai/n/n80d064a2b218

 話し合い活動では、活発に話す子どもばかりに目が行きがちですが、おとなしくて積極的に話せない子どもも、しっかりと参加していることもあります。そうしたことも改めて考え直さなければいけないと感じます。


 もう一つは、指導案についてです。「万人に問うのは指導案ではなく、授業そのものなのである」と述べられます。これは、ぜひ、多くの若い先生に伝えたいところです。

 指導案を書くと、その通りにしなければという若い先生が結構います。その指導案通りの授業は、多くが教師の立てた筋道を歩かせるだけのものです。子どもに寄り道、脱線を認めません。

 また学校の管理職、研究主任や指導主事の中には、この指導案の細部まで指導して、それが若い教師のやる気をそいでいるようなケースもよく耳にしました。指導案を書くことで鍛えられるところは非常にあるとは思います。ただ、あまり些末なところにこだわるのも、どうかとも思います。

 上田薫や倉澤栄吉先生、今井鑑三先生も、授業は指導案通りにはいかないし、むしろそれが破れ、修正されなければならないとも述べられています。

 今まで、子どもの発言、発見から指導案を離れて展開した見事な授業をいくつも見ました。指導案通りに縛られていれば、そうした授業はできないでしょう。

 ただ、こういう話をすると、「指導案は適当でいい」と考えてしまう若い教師がいました。それは間違いで、板東先生も「この苦しむ過程が必要なのだ」と述べられているように、指導案を作成するために教材と対峙し、教材研究を深める中で、身についていく力が非常に大きいと思います。


 「何もしない時間」についてですが、本書のサブタイトルになっていますように、本書の随所で触れられています。その意味を、一言でそれを説明することはできません。

 学校とは、学校教育法を持ち出さなくても、子どもに教育を施す機関であることは、誰もが認めるところでしょう。先生自身も、「何もしない」ということは「教育課程上では、許されない時間かもしれない」とも言われます。

 では、なぜこの時間が必要なのでしょうか。それは、そのまま「学校とは何か」という問いに行き着くように思います。

 板東先生は、学校は「子どもたちを豊かに育てる場所である。何かをさせることが、何かができるようにすることが、目標ではない」と述べられます。

 これからは、福澤諭吉の「すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり」という言葉を思い出しました。私がお世話になった中野重人先生もよく、「学校の子育て」という表現をされていました。

 こうした学校観の一つの形が「何もしない時間」に表れているのでしょう。

 みなさんは、「学校とは何か」にどう答えられるでしょうか。「何もしない時間」とあわせて考えてみると、おもしろいと思います。


 そういう意味では、本書は、私たちに何かを教えてくれる書籍と言うよりは、私たちを考えるよう仕向けられたものだと思いました。

 秋田喜代美は、直接的に学習観を示さなくても、それぞれの語りの言葉に表れることを指摘しました。本書は、そうした学習観、子ども観が、実践であったり、手紙であったり、いろいろな表現で語られています。ぜひそれを感じ取ってください。


 先日、Twitterで、「最近の教育書は技術ばかりで哲学がない」とつぶやきましたら、結構な反応がありました。多くの教師もそう感じているのでしょう。

 板東先生も「一見熱心に見える教師は夢中で教育方法に習熟しようとする。マニュアルを手に入れ、明日を費やすことのみに目をやる」と危惧されます。教育書を編集していながら、私も同じことを感じていました。

 そういう意味でも、技術だけの教育書に不満の方には、ぜひ手に取って頂きたい1冊です。


編集者的Point 

 本書の作り方は、書籍としてはオーソドックスです。ただ、教育書としてみるならば、「実践」の描かれ方が、ほかにはありません。よくあるのが、指導案やそれに類することが書かれ、授業展開などが書かれるものです。本書は、そうではなく、過程であったり、背景であったり、子どもたちとの活動場面であったり、実践にかかわる様々な場面が、具体的に描かれていきます。そこに登場する子どもたちは生き生きとして、変容が見えてきます。

 例えば、食育の実践で、子どもが「先生、この世の中には、無駄なものは一つもないんだね」と発言します。この一言に数字には表れない子どもの成長が見え、そしてそれを見逃さない教師の目があります。

 だから、その場にいるような気持になり、すっと入ってくるのでしょう。


 余談ですが、本書を刊行した一茎書房の代表者の斎藤草子さんは、齋藤喜博の娘さんだそうです。私は実は20年以上前に、齋藤喜博の息子さん(といっても私の大先輩です)にたいへんお世話になっていました。仕事上だけでなく、駅前のお店などでもです。そうしたところからも、本書にはご縁を感じました。