ひとりひとりの子どもたちが、どの子どもも例外なく、「善くなろう」「善く生きよう」としているものとして観られ、かつ取り扱われなければならないことになるのです。当然、だれかが勝手に定めた「善さ」の目標に近づく程度に応じて「できる子」「できない子」や「善い子」「悪い子」などと区別して取り扱われる理由もありません。できようができなかろうが、大人の目に善かろうが悪かろうが、どの子もすべて「善く」なろうとしているのであり、そういう子どもとして取り扱われることになるのです。
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