”この子らの存在の意義”を口にすること自体、不遜なことで、人間として言うべきことではないと、私は思います。意義があろうと、なかろうと、そういう子らが現に生きている。厳然としてその事実があるのです。その子らと一緒に生きて行こう――これが私どものあるべき姿ではないか。つまり”そのこと自体がわれわれの幸である”のです。※この子ら:知的障害のある子ども
子どもらが楽しんでやってくれれば、それでよいのです。 どうも、何のためにやる、と言いますけれど、やっているうちにそうなる、或いは、やっていることがそうなんだという考え方に、僕はなるんですなあ。(中略)教育とは意欲の発生やともいうぐらいやから、粘土細工を楽しみ、これに打ち込んでいるという状態そのものが教育やないかと思うんですな。
教師自らも、子どもと共に、冷暖自知の世界にとびこんで、精薄児と共に成長することを楽しみとするに至ったとき、精薄児の道徳しつけは、自ら前進をはじめるであろう。※冷暖自知:「教育的冷暖房完備状態」ではなく、自ら人生の熱さ冷たさを知るということ。 精薄児:知的障害ある子どもの当時の言い方。
人類の存続する間に、この子らのことが分かってもらえる時がくるか、こんか、それも分かりません。しかし、そういう時が来るからやる、来んからやらんというのではなしに、来ようが来まいが、今ここにいる子どもらを抱いて一緒に歩いて行こうじゃないかという、ただそのことだけで、元気を出して頑張っているのです。※この子どもら:知的障害のある子ども