「教師の成長は直に児童の成長である。児童の成長即教師の成長でなければならぬ。両者の間不即不離の関係が保てなくてはならぬ。 生命の成長とはあくまでも自己に徹することである。自己の特色を伸ばして行くことである。成長は内より伸び行くことである。外からくっつけたものでは成長ではない。(中略) 変化と成長はよく混同される。」
自由教育は深く批判哲学に泉づみ、遠く理想主義の流を汲み、個人的に淵しては人格価値の実現となり、社会的に湛へては文化国家の思潮となり、方法的には自学と自治の帆を掲げて、自覚と呼び自律と名づくる自由によって、常に達しつつしかも永久に達せられざる自由の港へと教育を舟漕ぐものである。
授業の現場では多くの場合、学習指導案を書いてしまうと、それで大きな問題が解決してしまったと感じる先生が多い。あとは授業をするだけ、といったとらえ方がなされている。 しかし、これは大きな間違いだ。授業の中で子どもと顔を合わせたときが最も重要な時であって、先生は、そこに最も大きな力を投入すべきなのである。子どもと先生と教材の関わりの、質そのものが重要なのである。 授業というものは、子ども、先生、教材のそれぞれが別々に吟味されていくものではないということが言いたいのである。
教科書の展開マニュアルどおりにやればまずまずの授業は可能だ。しかし、子どもには失敗もなく、試行錯誤もない学習の押し売りだ。果たして、正しいことのみ与えればいい学習といえるか。好奇心に駆られて自ら学び続ける子が育つのか。
「わかりましたか」と聞くときの教師自身が、子どもにほんとうの真剣な答えを期待していないという自分への甘さがあるのではないかと思います。「何もわかりません」と言われたら、どういう顔をするつもりでしょう。さぞびっくりするでしょう。それくらい自分はあまったるいのだということを考えるわけです。ですから私は「わかりましたか」ということばを口から出すまいと思って、指をしばっていたことがあります。…そうすれば少しは言わなくなると思って、鍛えていた日々もあります。